「有名ロースターで買ったとびきりの浅煎り豆。お店で飲んだ時はあんなに華やかでジューシーだったのに、家で淹れるとなぜか平坦で、香りも弱い気がする……」
もしあなたが、0.1g単位のスケールを使いこなし、温度管理も徹底し、グラインダーの粒度分布まで気にしているにもかかわらず、この「最後の壁」を感じているなら、犯人はほぼ間違いなく「水」です。
コーヒーの抽出液(液体)の約98%から99%は水です。豆という素材がどれほど優れていても、その溶媒となる水にノイズが含まれていれば、本来のポテンシャルを引き出すことは物理的に不可能です。
しかし、水の化学(Water Chemistry)は複雑です。TDS、硬度、アルカリ度、pH、マグネシウム……。専門用語の羅列に圧倒され、「結局、どうすればいいの?」と迷子になってしまう方も多いでしょう。
本記事では、SCA(スペシャルティコーヒー協会)の基準と、日本の水道水の実情を照らし合わせ、「日本の家庭で再現できる、失敗しない水選びの最短ルート」を提示します。感覚論ではなく、測定可能な指標と化学的な根拠に基づいた「ラボの結論」をお伝えします。
結論|家庭の優先順位は「まず塩素、次に硬度」
「水にこだわる」というと、多くの人が「ミネラルウォーターを買わなきゃいけないのか」「特別な成分を添加するのか」と考えがちです。しかし、家淹れ珈琲研究所としての結論はもっとシンプルで、かつシビアです。
まずは以下のピラミッドを見てください。これが、コストと手間のバランスを考慮した、家庭における水質改善の「絶対的な優先順位」です。
多くのホームバリスタが Step 3(理想的なミネラルバランスの追求)に目を向けがちですが、Step 1(塩素除去)が不完全な状態で他の要素をいじっても、努力はすべて水の泡になります。
なぜなら、水道水に含まれる塩素は、コーヒーの繊細なフレーバー成分(特に抗酸化物質や香り成分)と化学反応を起こし、それらを破壊・変質させる「攻撃的なノイズ」だからです。
SCA基準と日本の水道水の「ズレ」を知る
世界的なコーヒーの品質基準であるSCA(スペシャルティコーヒー協会)は、理想的な抽出水(Water for Brewing)の基準を以下のように定めています。これはいわば「教科書的な正解」です。
| 測定項目 | SCA推奨ターゲット | 許容範囲 | 日本の一般的な水道水 (関東・関西等の都市部平均) |
|---|---|---|---|
| 香り・色・塩素 | クリーン / ゼロ | – | 塩素臭あり (0.1mg/L以上) |
| 総硬度 (Total Hardness) | 68 mg/L | 17 – 85 mg/L | 30 – 60 mg/L (軟水) ※範囲内〜やや低め |
| アルカリ度 (Total Alkalinity) | 40 mg/L | At or near 40 mg/L | 30 – 50 mg/L ※地域によるがおおむね適正 |
| pH | 7.0 | 6.5 – 7.5 | 6.8 – 7.5 ※適正 |
参考:SCAA “Water for Brewing Specialty Coffee” (2009) および日本の各水道局データより編集部作成。
※硬度・アルカリ度はCaCO3換算値。
この表からわかる日本の水道水の現実は、以下の2点に集約されます。
- Good News: 日本の水道水は、硬度やpHに関してはSCA基準の「許容範囲」に自然と収まっている地域が多い。つまり、欧米のように「硬すぎてマシンが壊れる」「味が抽出されない」といった致命的な問題は少ないのです。
- Bad News: 衛生上の理由から、塩素(カルキ)が必ず含まれている。そして、これがコーヒーの「敵」です。
だからこそ、当研究所の戦略は明確です。「ミネラルバランス(硬度)をいじる前に、まずは塩素というマイナス要因を徹底的に排除する」。これだけで、家庭のコーヒーは劇的に改善します。
では、具体的にどのようなツールを使えば「塩素だけ」を効率よく抜くことができるのでしょうか? 次章で3つのアプローチを比較・解説します。
3つのアプローチ比較:あなたに合う「水」はどれ?
塩素を取り除き、理想の水を手に入れるためのルートは大きく分けて3つあります。それぞれにメリット・デメリットがあり、「万人に最高の正解」はありません。あなたのライフスタイルと、どこまで味を追求したいかによって選択してください。
| タイプ | 浄水器 (ポット/蛇口) | ボトルドウォーター | 水DIY (カスタム) |
|---|---|---|---|
| 役割 | 日常使いの最適解 | 味の基準点作り | 究極の味作り |
| 塩素除去 | ◎ (選択的除去) | ◎ (最初からゼロ) | ◎ (ゼロベースで作る) |
| 硬度管理 | △〜○ 製品による | ○ 銘柄で固定可能 | ◎ 自由自在 |
| コスト (1L) | 約 4.5円〜 | 約 50円〜100円 | プライスレス (手間大) |
| 手間 | 小 (カートリッジ交換のみ) | 中 (買い出し/ゴミ) | 特大 (調合/機材) |
「結局、今の自分にはどっちがいいの?」を最短で外さないコツは、まず “水を数値化” して現状を把握することです。
アイスでは、氷が溶けて“水そのもの”が味に混ざります。氷の量・質・保存(冷凍庫臭対策)まで含めた固定法はこちら。→ アイスコーヒーが薄いのは“氷のせい”。希釈設計と製氷で味を固定する方法

1. 浄水器(ポット型・蛇口直結型)|推奨ルート
家淹れ珈琲研究所として、9割のホームバリスタに推奨するのがこの「浄水器」ルートです。
理由は単純で、ランニングコストが圧倒的に安く(ボトルの1/10以下)、ゴミも出ず、料理などにも気兼ねなく使えるからです。「良い豆」にお金をかけたいなら、水にかかる固定費は下げるのが賢明な戦略です。
ただし、製品選びには注意が必要です。浄水器には大きく分けて「中空糸膜(ちゅうくうしまく)」系と「イオン交換樹脂」系の2つの技術トレンドがあり、コーヒーの味への影響が異なります。
- 中空糸膜系(例:クリンスイ、トレビーノ):
ミネラル成分はそのまま通し、塩素や微粒子だけを取り除きます。日本の水道水(軟水)のバランスを活かしたい場合に最適です。 - イオン交換系(例:ブリタ):
塩素除去に加え、カルシウムやマグネシウムを取り除いて「硬度を下げる」働きがあります。硬水地域に住んでいる方や、よりまろやかな口当たりを好む方に向いています。
クリンスイ CP405(ポット型)
日本の軟水バランスを崩しにくい中空糸膜系の定番。 まずは「カルキ臭をゼロにする」だけで、香りの解像度が上がりやすいです。 冷蔵庫運用もしやすく、“水の改善”の最短ルートに。
トレビーノ MK308T(蛇口直結型)
“思い立ったらすぐ抽出”派に強い、蛇口直結の省手間タイプ。 朝の捨て水(10〜15秒)を習慣化できるなら、運用の安定感が出ます。 料理にも回せるので、ランニングコストを下げたい人向け。
「結局、今の自分にはどっちがいいの?」を最短で外さないコツは、まず“水を数値化”して現状を把握することです。浄水器選びや、カートリッジ交換の見極めにも効きます。詳細は以下でまとめています。
2. ボトルドウォーター|基準点(キャリブレーション)として使う
「サントリー 南アルプスの天然水」や「クリスタルガイザー」などの市販の水です。
これらをメインの水として毎日使い続けるのは、コスト(1Lあたり約50円以上)とゴミの問題からあまり現実的ではありません。しかし、「自分の家の水道水(浄水)が良い状態なのかどうか」を判断するための「ものさし」として非常に優秀です。
ボトルドウォーターは成分が一定です。一度、「南アルプスの天然水(硬度約30mg/L)」でコーヒーを淹れてみてください。それが日本の軟水における「標準的な味」です。もし自宅の浄水で淹れたコーヒーがそれより明らかに不味いなら、浄水カートリッジの寿命か、そもそもの水質を疑うべきです。
3. 水DIY(カスタムウォーター)|究極の沼へ
精製水(純水)に、特定のミネラル(マグネシウムや重曹など)を自分で添加し、TDSや硬度を設計図通りに作り上げる方法です。海外の競技会や、一部のマニアの間では「Water Recipe」として一般的になりつつあります。
これはコーヒーの酸味や甘みを意図的にコントロールできる最強の武器ですが、手間と知識が必要です。まずは浄水器で「塩素抜き」の効果を実感し、それでもまだ物足りないと感じた時に足を踏み入れるべき領域です。
失敗しない「水選び」フローチャート
「結局、私の家にはどれがベストなの?」
そんな迷いを解消するために、ラボ推奨の選定ロジックをフローチャートにまとめました。あなたの居住環境と好みのコーヒーから、最適な選択肢を導き出します。
推奨:クリンスイ / トレビーノ
日本の軟水を活かし、浅煎りの華やかさをクリアに出したい人に最適。ミネラルを残しつつ、不純物だけを除去します。
推奨:ブリタ (Brita)
硬度を下げて「まろやかさ」を出したい人、深煎りを甘く飲みたい人、あるいは硬水地域の居住者に。スケール対策にも有効。
※コスト度外視で「味の基準」を作りたい場合は、スーパーで「南アルプスの天然水」を買うのが最短ルートです。
給湯室の一杯を底上げしたい人へ:JET BREWレビュー(薄い・苦いの理由も)

導入後の鉄則|水が変われば「運用」も変わる
最適な浄水器(あるいはボトル水)を手に入れたとしても、そこで終わりではありません。むしろ、そこからがスタートです。
塩素(カルキ)を除去するということは、水から「消毒剤という防御壁を取り払うことを意味します。これを理解せずに運用すると、コーヒーの味が落ちるどころか、衛生的なリスクを抱え込むことになります。
家淹れ珈琲研究所が提唱する、安全でおいしい水を維持するための「鉄の掟」を紹介します。
鉄則1:「24時間ルール」と冷蔵保存の徹底
浄水器を通した水(塩素除去水)には、殺菌作用がありません。常温で放置すると、空気中や注ぎ口の細菌が混入し、急速に増殖するリスクがあります。
絶対に「常温」で放置しないでください。
「水なんて腐らないでしょ?」と思うかもしれませんが、塩素のない水は非常に無防備です。メーカー各社も取扱説明書で「浄水した水はなるべく早く(24時間以内)使い切ること」を推奨しています。
当ラボでの運用プロトコルは以下の通りです。
- 冷蔵庫が定位置: ポット型浄水器は、使わない時は必ず冷蔵庫へ。低温環境下では細菌の増殖スピードが劇的に落ちます。
- 朝イチの水は捨てる(蛇口型): 蛇口直結型の場合、一晩フィルター内に溜まっていた水には雑菌が繁殖している可能性があります。毎朝、使い始めの10〜15秒は「捨て水(放流)」をしてください(食器洗いなどに使えば無駄になりません)。
- 24時間リセット: ポットの水が余っていても、24時間を経過したら一度捨て、植物の水やりなどに回しましょう。そして容器を軽くすすいでから新しい水を濾過します。
この「24時間ルール」を守るだけで、古い水特有の「重たい味」や衛生リスクを回避し、常にフレッシュな溶媒でコーヒーを抽出できます。
鉄則2:カートリッジ交換は「味の保険」と割り切る
日本人は「もったいない」精神が強いため、メーカー推奨の交換時期(2ヶ月や3ヶ月)を過ぎても「まだ水が出るから」と使い続けてしまいがちです。しかし、これはコーヒー愛好家としてはNG行為です。
活性炭の吸着能力には物理的な限界があります。限界を超えて使い続けると、塩素が除去できないだけでなく、最悪の場合、一度吸着した汚れが水中に再放出される現象(破過)が起こるリスクさえあります。
数千円の高級な豆を買う一方で、数百円のカートリッジ代を惜しんでその味を台無しにするのは、投資対効果(ROI)の観点からも合理的ではありません。スマホのカレンダーに交換日を登録し、機械的に交換しましょう。それが「美味しいコーヒー」への一番安い保険です。
鉄則3:週に一度は「分解洗浄」を
特にポット型浄水器を使用している場合、盲点になりやすいのが容器自体の汚れです。
- 注ぎ口パーツの裏側: 水切れが悪く、空気中の細菌が付着しやすい場所です。
- パッキンの溝: 水垢や、ピンク色のぬめり(ロドトルラなどの酵母菌)が発生しやすいポイントです。
少なくとも週に1回、カートリッジ交換のタイミングだけでなく週末などに、ポットを分解して中性洗剤で洗ってください(カートリッジ自体は洗剤厳禁です)。ピカピカのポットで濾過された水は、気持ちの面でもコーヒーを美味しくします。
まとめ:あなたの「最高の一杯」は水から始まる
コーヒーの抽出における「水」の重要性は、どれだけ強調しても足りません。しかし、難しく考える必要はありません。まずは「塩素を抜く」。これだけで、あなたの家淹れコーヒーはネクストレベルへと進化します。
- コーヒーの「敵」は塩素。まずはこれを取り除くことが最優先。
- 9割の人には、手軽でコスパの良い「ポット型/蛇口直結型浄水器」が最適解。
- 「日本の軟水」を活かすなら中空糸膜系(クリンスイ等)、「硬度調整」したいならイオン交換系(ブリタ等)。
- 浄水は生鮮食品。冷蔵保存と24時間以内の消費を徹底する。
この記事で全体像を掴んだら、次は具体的な「道具」や「数値」を見ていきましょう。それぞれの詳細記事で、さらに深い沼があなたを待っています。
美味しい水を手に入れて、素晴らしいコーヒーライフを!
家淹れ珈琲研究所でした。
参考文献・情報ソース
本記事の執筆にあたり、以下の規格、法令、および専門文献を参照しました。
-
SCA / SCAA 水質基準(抽出用水)
Specialty Coffee Association of America (SCAA). (2009). Water for Brewing Specialty Coffee(水質ターゲット値:TDS、硬度、pH、アルカリ度など)。
※原典の水質ターゲット値の参照元として、下記の論文(SCAA基準を引用)も併用。 -
水とコーヒーの化学(基礎理論)
Maxwell Colonna-Dashwood & Christopher H. Hendon. (2015). Water For Coffee: Science Story Manual.
(陽イオン・陰イオンがコーヒー抽出に与える影響、硬度とアルカリ度の相互作用に関する基礎理論) -
研究論文(抽出と水質・塩素などの背景理解)
Scientific Reports(Springer Nature)掲載論文:SCAA水質基準を参照しつつ、抽出条件が官能評価へ与える影響を扱う研究。
https://www.nature.com/articles/s41598-024-51110-7 -
日本の水道法および水質基準(残留塩素等)
厚生労働省. 水道水質基準について(給水栓における残留塩素等の考え方).
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/topics/bukyoku/kenkou/suido/kijun/index.html -
地域の水道水質データ(硬度の考え方・分布)
東京都水道局. 水の硬度|水質に関するトピック(硬度の定義、目標値、地域差の考え方).
https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/topic/02 -
浄水の保存・運用(24時間ルール等)
BRITA(取扱説明書/ガイド)および TORAYVINО(公式FAQ)など、メーカー公表情報(浄水後の保管・使用目安)。
https://www.torayvino.com/faq/jyousuiki/221/
https://www.brita.co.jp/wp-content/uploads/2021/06/Maxtra-quickstartguide_J.pdf
※本記事におけるコスト試算や製品スペックは、2026年1月時点の実勢価格およびメーカー公表値に基づいています。価格や仕様は変動する可能性があります。


コメント