コーヒー豆を買うとき、あるいはカフェのカウンターに立ったとき。店員さんからの「どんな味がお好みですか?」という質問に、思わず口ごもってしまったことはありませんか。
「えっと……酸っぱくないやつで、飲みやすい感じで……いや、やっぱり今日はお任せでお願いします(本当はもっと自分の好みを伝えたいのに!)」
私たち家淹れ珈琲研究所は、これを「味覚の迷子」と呼んでいます。
これまでのレッスン(#1〜#10)で、あなたは正しい淹れ方や器具の選び方を学んできました。美味しいコーヒーを淹れる腕はすでに上がっているはずです。しかし、「自分がどんな味を美味しいと感じているのか」を言葉にしようとすると、途端に難しく感じてしまう。
これはあなたの味覚が鈍感だからではありません。認知心理学には「言語隠蔽効果(Verbal Overshadowing)」という言葉があります。言葉にできない感覚を無理やり不完全な言葉で説明しようとすると、元の「美味しい」という記憶や感覚そのものが歪められてしまう現象のことです。
無理にプロのような表現を使う必要はありません。「カシスのような」とか「ダークチョコレートの余韻」といった言葉が出てこなくても大丈夫。このレッスン #11 のゴールは、あなたの舌が感じている正直な感覚を、他者(店員さんや家族)に伝えるための「翻訳機」を手に入れることです。
特別な才能も、高価な機材もいりません。必要なのは、少しの知識と「温度」という補助線、そして比較するための「ものさし」だけです。
Chapter 1 味覚の準備運動(マインドセットの変革)
具体的な飲み比べ実験に入る前に、まずはコーヒーの味に対する「構え」を少しだけ変えておきましょう。美味しいコーヒーを見つけるために必要なのは、鋭い舌ではなく、フラットな心です。
「犬派・猫派」理論で考える
コーヒーの味を語るとき、私たちはつい「この豆は美味しい」「あの豆はイマイチだ」と優劣で判断しがちです。しかし、今日からはその考え方を一旦脇に置いてみてください。
代わりに採用したいのが「犬派・猫派」理論です。
- 「私は犬派だから、猫は劣っている」とはなりませんよね?単に「犬の活発さが好き」という好みの話です。
- コーヒーも同じです。「酸味が強い豆」は「悪い豆」ではなく、「活発な豆(犬タイプ)」なだけかもしれません。
味が自分に合わなかったとき、「失敗した」と思うのではなく「この子の性格は、今の私の気分とは違ったな」と捉える。これだけで、テイスティングの心理的ハードルはぐっと下がります。
ルール ポジティブ変換ゲーム
ここでもう一つ、このレッスンだけのルールを設けます。それは「否定語の禁止」です。
「薄い」「苦い」「酸っぱい」。これらの言葉は、無意識のうちにネガティブな感情を引き連れてきます。特に「酸っぱい」という言葉は、過去に飲んだ劣化したコーヒーの記憶と結びつきやすく、高品質なスペシャルティコーヒーが持つ「果実味」さえも拒絶してしまう原因になりがちです。
そこで、感じたネガティブな印象を、無理やりにでも「ポジティブな言葉」に変換するゲームをしてみましょう。言葉が変わると、不思議と味の探し方も変わってきます。
(Juicy / Bright)
「刺すような酸味」ではなく、果物をかじったときのような「明るさ」として探してみる。
(Smoky / Deep)
ただの刺激ではなく、チョコレートや燻製のような「深み」として捉えてみる。
(Clean / Tea-like)
味がしないのではなく、雑味がなく「透き通っている」と感じてみる。
この「ポジティブ辞書」を頭の片隅に置いたら、準備は完了です。いよいよ、実際の豆を使って、あなたの味覚の解像度を上げる実験を始めましょう。
Chapter 2 実践!比較テイスティング
頭の準備ができたら、いよいよ実践です。自分の好みの座標を知るためには、対照的な2つのポイントを打って、その間のどこに自分がいるかを確認するのが近道です。
今回は、家淹れ珈琲研究所として、あえてスーパーやモールで入手しやすい「超定番」の2銘柄を教材として指定します。
今回の「教材」豆2選
ブラジル豆ベースの、日本のスタンダードとも言えるブレンド。突出した酸味や苦味がなく、柔らかな甘みが特徴です。
参考価格:200g / ¥700〜¥800程度
ラテンアメリカ産の豆をしっかり深く焙煎。明確な苦味とロースト香(焦げ感由来の甘み)、ナッツのニュアンスがあります。
参考価格:250g / ¥1,500〜¥1,600程度
「えっ、いつも飲んでるやつだよ?」と思いましたか? その通りです。しかし、今日飲むのは「いつもの味」ではありません。飲み方を変えるだけで、これらが全く別の表情を見せることを体験してもらいます。
実験レシピ(変数を固定する)
比較実験において最も重要なのは「条件を揃えること」です。2つのカップを用意し、以下のレシピで同時に(難しければ順番に)抽出してください。
🧪 家淹れラボ指定 比較レシピ
- 粉の量 12g
- お湯の量 180ml
- 抽出温度 90℃
※注:90℃を指定する理由
94℃以上の高温は、香りは華やかになりますが、雑味や刺激的な苦味も出やすくなります。初心者が「甘み」を探すには、成分が穏やかに溶け出す90℃付近が最も適しています。
淹れ終わったら、まずは一口ずつ飲んでみてください。そして、ここからが本当の旅の始まりです。
Chapter 3 温度の旅(The Temperature Journey)
コーヒーカップの中に、「時間」という概念を取り入れましょう。多くの人は、淹れたてのアツアツこそが至高で、冷めたコーヒーは「劣化」だと思っています。
しかし、生理学的な事実は逆です。
コーヒーは、冷めてからが本番なのです。
私たちの舌には、温度によって感度が変わるセンサー(TRPチャネル)があると考えられています。これを理解すると、カップの中の味はドラマチックに変化して見えます。
※TRPチャネルの活性化傾向を概念化したイメージ図
Phase 1:アツアツ(60℃以上)|香りの時間
まずは淹れたて。湯気が立ち上るこの瞬間、香りはピークに達していますが、実は舌はほとんど味を感じていません。
- ハウスブレンド:ガツンとした苦味と、喉にくる熱の刺激(キック)を感じるはずです。「苦くて熱い」という印象が支配的です。
- マイルドカルディ:逆に、少し頼りなく感じるかもしれません。熱さの刺激に味が隠れてしまっている状態です。
ここでは無理に味を探そうとせず、「香ばしいアロマ」だけを楽しんで、カップを置いてください。焦らないで。主役はまだ舞台裏にいます。
Phase 2:飲み頃(50℃付近)|バランスの時間
少し温度が下がり、口に含んでも「熱っ!」とならなくなった頃合いです。
熱によるマスキング(覆い隠し)が薄れ、味の輪郭が見えてきます。スタバの苦味の角が取れてチョコレートのような風味に、カルディからはナッツのような香ばしさと優しい甘みが顔を出します。多くの人が「美味しい」と感じる安心ゾーンです。
Phase 3:冷め(35〜40℃)|真実の時間
ここです。多くの人が飲み干してしまっているか、あるいは「もう冷めちゃった」と残してしまう温度帯。体温と同じくらいのこの温度こそが、人間の味覚センサーが最も敏感になる「スイートスポット」です。
ここで、もう一度カップに口をつけてみてください。
- マイルドカルディの変貌:
驚くはずです。さっきまでは隠れていた「果物のような甘酸っぱさ」がいきいきと感じられませんか? 「酸っぱい」ではなく「ジューシー」。これが、冷めた時にだけ現れる豆本来の個性です。 - ハウスブレンドの正体:
重厚なコクが、「シロップのような甘み」として感じられるか、あるいは「少し重たくて渋い」と感じるか。焙煎による焦げのニュアンス(ロースト香)が、隠しようもなく現れます。
この「冷めた時の味」が好きになれるコーヒーこそが、本当にあなたと相性の良いコーヒーです。冷めて不味くなるコーヒーは、熱さで誤魔化していただけかもしれません。
Chapter 4 言語化のワークショップ
冷めたコーヒーから、新しい味は見つかりましたか? それが見つかったら、消えてしまう前に「言葉のラベル」を貼っておきましょう。
プロのカッパー(鑑定士)が使うシートは複雑すぎますが、私たちが使うのは、より直感的でシンプルな「家淹れ式シート」です。スマホのスクリーンショットで保存して、書き込みながら使ってみてください。
※この画像をスクショして、マークアップ機能で点を打ってみよう!
感覚を「注文」に翻訳する練習
シートに点を打つと、自分の好みの傾向が見えてきます。最後に、その点を繋いで、コーヒーショップで使える「魔法のフレーズ」に変換しましょう。
「酸っぱすぎるのは苦手ですが、冷めた時にフルーツのような甘みが出る、バランスの良い中煎りが好きです。」
「酸味はなくていいです。ミルクを入れても負けないくらいのコクと、チョコレートのような余韻がある深煎りが好きです。」
どうでしょう? 「お任せで」と言っていた時より、ずっと具体的で、かつ「プロっぽく」聞こえませんか? これが共通言語(プロトコル)を持つということです。
Conclusion あなたの「好き」の地図を持って
コーヒーの味覚に正解はありません。あるのは「あなたの好み」と、それ以外だけです。
今回のレッスンで、あなたは「温度」という時間軸と、「比較」という手段を手に入れました。今日感じたマイルドカルディの果実味や、ハウスブレンドの重厚感は、もうあなたの記憶に強く刻まれているはずです。
これからは、新しい豆を買うたびに、スマホのメモ帳に一行でいいので記録を残してみてください。
「冷めたらブドウみたいだった」「熱いときは苦かったけど、ぬるくなったら甘くなった」。
そのメモが10個溜まった頃、あなたはもう「初心者」ではありません。自分の好みの地図を持った、立派なコーヒーの探求者(Explorer)です。
Next Lesson…
さて、好みの傾向がわかってくると、次に気になるのは「なぜ、豆によってこんなに味が違うのか?」ということでしょう。
次回のレッスン #12 では、その秘密を握る「産地と精製(オリジン)」の世界へ足を踏み入れます。エチオピアの華やかさと、インドネシアの力強さ。世界を旅する準備をしてお待ちください。
家淹れ珈琲研究所 チーフコンテンツデザイナーより
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認知心理学・味覚生理学
- Schooler, J. W., & Engstler-Schooler, T. Y. (1990). Verbal overshadowing of visual memories: Some things are better left unsaid. Cognitive Psychology, 22(1), 36–71.(言語隠蔽効果について)
- Talavera, K., Yasumatsu, K., Voets, T., Droogmans, G., Shigemura, N., Ninomiya, Y., … & Nilius, B. (2005). Heat activation of TRPM5 underlies thermal sensitivity of sweet taste. Nature, 438(7070), 1022–1025.(温度と甘味受容体の活性化について)
- Green, B. G., & Frankmann, S. P. (1988). The effect of cooling on the perception of carbohydrate and intense sweeteners. Physiology & Behavior, 43(4), 515–519.
- Bartoshuk, L. M., et al. (1994). Bitter taste of caffeine: taxonomic usage and effect of temperature. Physiology & Behavior.(苦味と温度の関係性) コーヒー化学・抽出理論
- Clarke, R. J., & Macrae, R. (1987). Coffee: Vol. 2: Technology. Elsevier Applied Science.(焙煎による有機酸の熱分解と苦味生成メカニズム)
- SCA (Specialty Coffee Association). Coffee Standards & Protocols: Cupping Protocol. (カッピングにおける温度変化の評価基準)
- Illy, A., & Viani, R. (2005). Espresso Coffee: The Science of Quality. Academic Press.(抽出温度と可溶性固形分の溶解動態)
- Yeretzian, C., et al. (2002). From the green bean to the cup of coffee: investigating coffee roasting by on-line monitoring of volatiles. Journal of Agricultural and Food Chemistry.(メイラード反応と香気成分生成) 商品・市場データ
- カルディコーヒーファーム公式サイト. マイルドカルディ 商品情報 (2025年閲覧)
- Starbucks Coffee Japan. ハウス ブレンド | スターバックス コーヒー ジャパン (2025年閲覧)
※ 本記事における味覚の感じ方や表現は、家淹れ珈琲研究所の編集見解に基づくものであり、 特定のブランドや商品を格付けするものではありません。


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